空海の生涯
真言宗の開祖 空海の生涯
成田山国分寺は真言宗に属しています。その真言宗の開祖空海(774〜835)の生涯について時系列で説明していきます。
空海の誕生
奈良時代の終わり、
父の
空海の大学入学
空海は学問好きで、その優れた才能を見込んだ叔父の
空海の修行時代
大学は、貴族の子弟のための高級官吏養成のため儒教を主として中国の古典である
これらの学問は立身出世の処世術を説くもので世のために多くの人々を救うための学問ではないことに気付いた空海は、大学を去り出家して仏門に入る決心をしたのです。
周囲の猛反対にも空海の決意は変わりません。空海はこの決意を
出家した空海は、ある
虚空蔵求聞持法は虚空蔵菩薩の真言百万編を念誦するという苦行ですが、空海は各地の山や海辺を巡ってこの修行をします。
ある朝修行中の空海は強烈な宗教体験を受け、求聞持法を完全に自分のものとし、虚空蔵菩薩と一体になることができたのでした。
空海の入唐
空海は、いつしか大日経などの体系的な密教の片鱗に触れ、より十分な理解を求めて入唐を決意したと推測されます。
このとき、天台宗の開祖である伝経大師最澄も一緒でした。
恵果阿闍梨
空海は唐の都、長安(現在の西安)の西明寺で寄宿し、
「
真言・陀羅尼などインドのインドの言語を重要視する密教の基礎を必要程度修めた空海は、待望の
中国密教の事実上の確立者であった西域系インド僧・不空三蔵の六人の高弟の一人であり、しかも最年少のゆえに一人で密教の孤塁を守っていた恵果阿闍梨も、当時すでに60歳になろうとしていました。
しかも病弱で付法の弟子を求めていたおりしも、少壮の空海がその前に現れたのです。そのうえ、梵語・漢語ともになみなみならぬ力を備えている空海を見た恵果阿闍梨は、中国人の弟子である
このとき恵果阿闍梨は、ほとけとの合一を現世に求める密教には不可欠の膨大な品々を、惜しみなく空海に与えます。
目が見えない状態の自分が投げた花弁が舞い落ちた場所。そこに描かれている仏様とご縁が結ばれるというわけです。
空海が投げた花弁は、胎蔵界でも金剛界でも、まっすぐに大日如来のもとへ向かって舞い降りたのです。
この奇跡が空海の前に起こったのは、師である恵果が結縁灌頂をした時でした。
空海の結縁灌頂を見た恵果は、彼こそがやはり正統な密教の継承者であることを再確認し、彼に「遍照金剛(へんじょうこんごう)」という称号を与えました。
遍照金剛とは「揺るぎない心であまねく照らす」ことと理解することができます。
空海に、恵果は「阿闍梨(あじゃり)」の称号を与えました。「阿闍梨」とは信仰の伝統を守り、他の模範となる僧侶が受ける称号で、並大抵の修行では到達できない位なのです。
その使命を終えた恵果阿闍梨は、授法後わずか3ヶ月にして涅槃の楽土におもむきました。あたかも、空海との出会いと別れを待っていたかのごとくでした。
恵果阿闍梨が涅槃の楽土におもむく少し前、彼は空海に一本の霊木を授けました。その木に不動明王(ふどうみょうおう)を刻み、日本までの道中の安全を祈願せよと言うのです。
「空海には必ず帰国して、密教の真髄を後世につなげてほしい」と恵果阿闍梨は思ったのでしょう
大法を受けた空海も、所期の20年の留学期間を2年で切り上げ帰国します。
帰国時に嵐の海上で空海を守ったのが浪切不動明王(なみきりふどうみょうおう)です。
空海は唐で大日如来と固く結ばれ、浪切不動明王は、人間として修行する空海をあらゆる災厄から守るために、大日如来が変化(へんげ)した姿なのです。
高雄山寺で布教
桓武天皇の死去と平城天皇の即位で、九州にたどり着いた空海でしたが政治的には順風ではありませんでした。3年後、嵯峨天皇の代になって、大同四年(809)やっと入京を許され、空海は高雄山寺(現在の高雄山神護寺)に住むことになります。
ここを拠点に、密教をひろめるためにさまざまな活動をします。その第一歩が、「
また弘仁三年(812)には
空海はさらに東国や九州にも弟子を派遣して密教をひろめることに努めます。
空海による高野山の開創
唐からの帰国の途中、往きと同様に大変な嵐で船が難破しそうになります。そのとき空海は帆柱を倒して、その柱に不動明王を刻まれ嵐が静まるように無事を祈願され、日本に帰れたら
空海は、弘仁七年(816)に、若い頃に山岳修行したことのある紀州高野の地を
済世利民 の社会活動
空海が出家するようになった動機のひとつは、社会の不平等や多くの人の不幸な境遇に、心を痛めたことです。ですから讃岐国の満濃池の堤防修築や日本で最初の庶民学校である
空海は、農業のための治水技術や国家の繁栄を左右する教育制度についても、唐でしっかり学んでいたのでした。
東寺 建立
桓武天皇が京に遷都したとき(794)、都の南を守る寺として東寺と西寺の建立がはじめられましたが、なかなか完成しませんでした。
そこで弘仁十四年(823)空海は嵯峨天皇より洛南の東寺(教王護国寺)を賜り、建立をまかされ、五重塔や諸堂の建立に着手します。特に講堂には密教の二十一尊像を安置し、独創的な曼荼羅世界を構成して、空海は東寺を密教による鎮護国家の道場としました。ここを都での拠点として、さらに、布教活動が展開されたのです。東寺は、いまはなき西寺とともに官寺として出発しましたが、その機能を十分に発揮しないままに、真言の寺として生まれ変わりました。
そして天長七年(830)には
高野山が行を重んじた、すなわち「即身成仏」的志向性が強いのに、東寺は対社会的、換言すれば国家守護的な「
空海は永遠の世界へ
天長九年(832)、空海と弟子たちにより、高野山
これより空海は高野山にこもり、三年後の承和二年(835)三月二十一日、弟子達に囲まれ、春なお浅い高野山で静かに
921年、醍醐天皇は、その功績をたたえて、空海に弘法大師の称号をおくります。またその後、空海が高野山奥の院で生き続け、国の平和と人々の幸福を願っている入定信仰が、民衆のなかにひろまっていきます。
また空海をお大師さまと慕う人々により、たくさんの大師伝説が各地に生まれました。
真言宗成田山国分寺では境内に弘法大師空海像をお祀りしております。
空海の教えは今に
そして平安時代の終わりごろ、1114年に、真言宗中興の祖といわれる
弘法大師の教えは簡単にいうと、「密教を永遠に説き続けている仏さまは、大日如来であり、全ての諸尊は大日如来に統合される。このことを図で表したのが曼荼羅であり、この世において、私たちがこの身このまま大日如来と一つになることにより大日如来そのものとなるという自覚が、密教の悟りである。そして、私たちの本来の願いは、自分自身の悟りをひらくことはもとより、むしろすべての人々の苦しみ、悩み、迷いを取り除いてあげることが、何よりもたいせつなことである。」というものです。
興経大師は四十九歳で根来山で
弘法大師空海、興経大師覚钁によりひろめられた真言密教の教えは、流れとして真言宗智山派総本山
両祖大師のお誕生日はともに六月で十五日と十七日です。そこで成田山では、弘法大師空海・興経大師覚钁に感謝をささげ、その功績をたたえる青葉まつりを六月に催しています。緑の美しい季節で、空海をおしのびする最高のときです。
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